——3月 千尋は夢を見ていた。それはいつのことなのかは分からない程の遠い記憶――千尋の側には子供のころからの幼馴染で、将来を約束した相手がいた。彼と会う場所はいつも決まっている。そこは二人だけの秘密の場所。待ち合わせ場所に行くと、決まって先に来ているのはいつも彼の方だった。そして千尋がやってくると振り返り、笑いかけてくる。『待っていたよ、僕の大切な———』彼と二人きりで過ごす時間はとても幸せだった。いつか夫婦になって、愛に満たされた穏やかな時間がいつまでも続いていくのだろう。あの頃の千尋は信じて疑わなかった。けれど、残酷な運命が彼を千尋から永遠に奪い去ってしまったのだ。愛する彼はこの世を去り、千尋は泣きながら神に祈った。どうか、お願いです。もう一度だけ愛しい彼に会わせて下さいと――****ピピピピ……目覚ましの音で千尋は目が覚めた。「あ……もう朝だ……」千尋はまだ虚ろな目で天井を見ている。何故か頭がズキズキ痛む。その時になって自分が今迄泣いていたことに気が付いた。「え……? 私、何で泣いてるの……?」千尋の頬は涙で濡れていた。何故かとても悲しい夢を見ていた気がするのに、少しも思い出せない。「どうしちゃったんだろう……? とにかく、顔を洗ってこなくちゃ」泣いて赤くなった目を渚に見られでもしたら、心配されるに決まってる。千尋は渚に見つからないように洗面台に行くと顔を洗い、手早く化粧を済ませると台所に行った。渚はもう起きていて、料理をしている。「あれ? おはよう、千尋。いつの間に起きていたの?」「う、うん。おはよう。ちょっと先に顔を洗っておきたくて」「ふ~ん……あれ? 千尋、何だか目が赤いように見えるけど、どうかした?」渚は心配そうに千尋の顔を覗き込んだ。「大丈夫だってば、何でもないから」千尋は恥ずかしそうに渚から顔を背けた——**** 朝食を食べ終え、食後のコーヒーを飲んでいる時に渚が尋ねてきた。「ねえ、千尋。今日は何の日か知ってる?」「今日? え~と……? あ、もしかして……」「そう、3月14日。ホワイトデーだよ」「そっか。あれからもう1か月経つんだね~」「うん、今夜は楽しみにしていてね。その前に、これ」渚は小さなケースを取り出して蓋を開いた。それは小さな花を模った紫色のピアスだった。とても可愛らしく
「な、渚君……!」その時、千尋のスマホが鳴った。「!」弾かれたように渚は千尋から離れた。「あ、私……電話出るね」千尋もバツが悪そうに言うと電話に出た。相手は店長の中島からだった。「……はい。あ、もう大丈夫です。本日は急にすみませんでした。はい、明日は必ず。……それでは失礼します」電話を切ると渚が声をかけてきた。「今の店長さんから?」「うん、明日は出勤出来るかどうかの確認の電話だったよ」「僕はもう大丈夫だから千尋は構わず仕事に行きなよ」「渚君は休まないと駄目だよ?」「ええ~大丈夫だよ。千尋は心配性だな」「だって……渚君にもしものことがあったら……」その後の言葉は小さすぎて渚の耳には届くことは無かった。「本当に大丈夫だから。多分知恵熱のようなものかもしれないし」渚は笑う。「それじゃ、明日の朝も熱が無かったら出勤ってことにしてくれる?」「分かったよ。千尋がそうして欲しいならね」千尋が時計をみると、18時を過ぎていた。「そろそろ晩御飯の支度しようかな。食事は私が作るから渚君は何もしないんだよ?」「別に大丈夫なのに……」「いいから、隣の部屋で休んでて」「はいはい」渚は苦笑するとリビングへと移動した。 それからほどなくして料理が完成した。今夜の食事は病み上がりの渚を考慮して作られた薬味たっぷりの卵粥と大根とレンコンのみぞれスープ。よく祖父が千尋が風邪を引いた時に作ってくれた料理である。「渚君……御飯出来たよ」渚はリビングのソファで転寝をしていた。「……もしかして寝ちゃったの?」「!」 千尋はそこで再び息を飲んだ。またしても渚の身体が一瞬透けて見えたのである。気が付けば千尋は渚に駆け寄り、手を握りしめていた。「え? な、何? どうしたの?」驚いたのは渚である。転寝をしている所に急に千尋に手を握りしめられたのだから無理はない。「あ……な、何でもない……」「千尋?どうしたの? 顔色が悪いよ?」渚は心配になって千尋の頬に触れた。「だ、大丈夫だから。ちょっと渚君が一瞬消えて見えたような気がして……。アハハ……そ、そんな訳無いのにね」千尋は笑ってごまかしたが、何故か渚は辛そうな顔で俯いている。「え? ごめんね、渚君。別に傷つけようと思って言った訳じゃ……」渚は顔を上げると、千尋の手をしっかり握りしめて意味深な言
「え?」咲と呼ばれて、千尋の胸がドクンと鳴った。(誰? 咲って?)部屋を出ても、先程の渚のセリフが頭から離れない。熱に浮かされて誰かと勘違いしているのだろうか?一度も聞き覚えのない女性の名前を嬉しそうに言った渚の顔が脳裏から離れない。「いけない……こんなこと位で考え込んでちゃ。とにかく渚君に何か食べて貰わないと」 台所へ行き、お米を研ぐと小さな土鍋を取り出して千尋はお粥づくりに取り掛かった。土鍋でお粥を作っている最中に渚の職場にも電話を入れて、熱が出た為に仕事を休ませて欲しいと連絡をした。 それから約30分後――千尋は出来上がったお粥と薬と水をお盆に乗せて渚の部屋へ再び様子を見に行った。渚は相変わらずベッドで眠っている。「渚君……?」千尋は枕元に座って声をかけた。「う……ん……」渚は目を開けて、千尋を見つめる。「大丈夫? お粥作ってきたんだけど食べられる?」「あ……ごめん。…迷惑かけちゃったね……」渚は弱々しく笑った。「迷惑だなんて、そんなことは無いよ。具合はどう? 何か口に入れないと薬飲めないと思ったんだけど」「大丈夫、起きれるよ」渚はベッドから身体を起こすと壁に寄りかかった。「一人で食べられる?」「うん、大丈夫だよ」渚はお盆を受け取りお粥を口に運んだ。「ありがとう、美味しいよ。千尋」弱々しくも笑顔でお礼を述べる渚。「良かった……。汗が酷かったから上だけ着替えさせてしまったのだけど、後で下も着替えたほうが良いからね。取りに行くから置いておいて」「着替えまでさせてくれたんだ。ごめんね、迷惑かけて」「迷惑なんてそんなこと言わなくて大丈夫だからね? 汗酷かったから、何か飲み物買って来るから待ってて」「ありがとう、それじゃ頼むね」渚は赤い顔で言った。「うん、それじゃ行ってきます」千尋は渚の部屋を出て行った——**** 1時間後—— 買い物から戻った千尋は飲み物や食べ物を出して冷蔵庫にしまうと渚の様子を見に行った。渚はベッドで眠っている。千尋が作ったお粥はきれいに食べられ、用意した薬も飲んでいた。「あ、着替えもしてくれたんだ」足元には先程来ていたパジャマが置かれている。渚の額に手を当ててみると、先程よりも熱が引いているように感じた。「良かった……。少しは楽になったみたい。渚君……疲れが溜まっていたの
真夜中――千尋は自分の部屋で小さな寝息をたてて眠っている。一方の渚は間借りしている部屋のベッドの上で起き上がり、窓から見える月に右手をかざしていた。「千尋……もしも君を好きだと言ったら、君は僕を受け入れてくれるのかな……?」勿論その問いに答える者は誰も無く、渚はいつまでも月を眺めていた——**** 千尋がいつものように朝の6時に起きてみると、珍しく渚が台所にいない。「あれ? 珍しいな……。いつもならとっくに起きてるはずなのに。様子を見にいこうかな」 千尋は渚の部屋の前に来ると、遠慮がちに声をかけた。「おはよう、渚君。起きてる?」けれども返事が無い。一瞬ためらったものの、千尋はそっと部屋の戸を開けた。「入るね……?」部屋に入ると渚はまだ布団の中で眠っていた。が、どこか様子がおかしい。近寄ってみると真っ赤な顔をし、呼吸も荒かった。「渚君……? ひょっとして熱でもあるの?」そっと額に手を当てると、燃えるように熱い。「酷い熱……!」(どうしよう……。とにかく頭を冷やしてあげないと)祖父は冷凍庫に常に氷枕を用意しておく人物だった。千尋もそれに習い、常に氷枕を冷やしておいたので、すぐに台所に取りに行き、タオルでくるむと渚の所へ急いで戻った。熱でうなされている渚の頭を持ち上げ、枕を入れ替える。顔の汗を濡らしたタオルでよく拭いた。身体中も酷い汗をかいている。千尋は一瞬躊躇したが、決心すると渚のパジャマのボタンを外していく。前をはだけると、上半身酷い寝汗をかいている。まずは胸から腹にかけて清潔なタオルで汗を丁寧に拭きとった。「背中も拭かなくちゃ。ごめんね、渚君。横向きになってもらうね」千尋は何とか渚の肩を持ち上げて横向きにさせ、背中の汗も拭き取っていると、渚がぼんやり目を覚ました。「あ……」渚は熱に浮かされた瞳で千尋を見ている。「気が付いた? あのね、悪いけど一度身体を起こせるかな? 汗が酷いから着替えたほうがいいと思うから」「うん……」渚は返事をすると、何とか身体を起こした。千尋は素早くパジャマを脱がせると、上半身の汗を全て拭き取り、新しいパジャマを着せると、すぐに渚はベッドに倒れ込んでしまった。汗を拭いてパジャマを取り換えたお陰か、渚の呼吸が楽になってきた。本当はズボンも取り換えるべきなのだろうが、流石にそこまでは無理なの
今日の<フロリナ>はとても忙しかった。近年「フラワーバレンタイン」と言う言葉が日本でも徐々に浸透してきているお陰か、多くの若い男性達が花束を購入していったからである。**** ——20時過ぎ 遅番担当だった男性従業員の原と千尋は店の片付けを行っていた。「青山さん、今日はバレンタインのチョコどうもありがとう」シャッターを閉めながら原がお礼を述べてきた。「いえ、いつも原さんにはお世話になってるのでほんの気持ちですよ」「渚君には特別なプレゼントあげたんですか?」「え、と……手編みの手袋です。渚君手袋持っていなくて手を冷たそうにしていたので」「それは良かったですね。あ、そろそろ渚君が迎えに来る時間じゃないですか? 今日のお礼です。残りは片付けておくので青山さんは先に上がっていいですよ」「でも、それでは……」「いいんですって、ほら。行って下さい」「分かりました、どうもありがとうございます。それではお先に失礼します」 帰り支度を終えて店の外に出ると、もうそこにはコートのポケットに両手を入れてガードレールに寄りかかる渚の姿がある。「あ、お疲れ様。千尋」寒そうな息を吐きながら渚が笑顔を向けてきた。「渚君もお疲れ様」「ジャン! ほら、見て」渚はポケットから手を出すと両手には今朝千尋からもらった手袋をはめている。「とっても温かいよ。ありがとう」無邪気な笑顔の渚。「ど、どういたしまして……」渚の笑顔に何故か千尋は胸の鼓動が高まる「それじゃ、帰ろう? 千尋」渚は当然のように右手を差し出してきた。千尋が遠慮がちに手に触れると渚は千尋の手を握りしめて自分のポケットに入れた。「ほら、こうすればもっと温かいでしょう?」「う、うん。そうなんだけど……ちょっと距離が近くない?」動揺する千尋。「え? 近すぎ? 歩きにくいかな?」「そういう意味で言ったんじゃないんだけど……」「ならいいじゃない。離れて歩くより、くっついて歩いたほうが温かいよ?」千尋は隣を歩く渚の顔を見た。街の明かりに照らし出された渚の顔はやはり素敵で胸がざわつく。すれ違いざまに何人かの若い女性たちが振り返って渚を見ているのだが、当の本人は全く気にも留めていない。その時、千尋は渚が大きな紙袋を持っていることに気が付いた。「ねえ、渚君。その紙袋何が入ってるの?」「ああ
「おい、里中。どうしたんだよ? 急に難しい顔して黙り込んで。何か悩み事でもあるのか? 俺で良ければ相談に乗るぞ?」突然静かになった里中を見て近藤が声をかけた。「いや、何でも無いですよ!」里中は慌てて首を振る。「そういえばここ最近、間宮君の様子がおかしいって聞いてるぞ。お前何か知ってるか?」「え? そうなんですか? 別に俺は何も知らないですよ」「う~ん……お前のその様子だと本当に何も知らなさそうだな。実はここのところ間宮君がよく食器を取り落して割ってしまったり、出来上がった料理を運ぶ際に落としてしまう事がたまにあるらしいんだ」「え? どういうことなんですか?」「それが俺も良く分からないんだよなあ。でも取り落した時はいつも真っ青な顔で片側の手で手首を掴んで震えているらしいから、もしかして手首の調子でも悪いんじゃないかって言われてるんだよ。診察でも受けてくれれば、ここでリハビリ出来るのにな」話が終わると、じゃあなと言って近藤は去って行った。「間宮……気になるな。今日はレストランで昼飯食べるか……」里中はポツリと呟いた――**** 昼休憩に入り、里中はレストランに来ていた。空いているテーブルを見つけて座るとオーダーを取りに来たのが偶然にも渚であった。「里中さん。今日はここでランチなんだね」「あ、ああ。まあな。ところで……今日の日替わりメニューは何だ?」「カツフライ定食だよ」「じゃあ、それを頼む」「はい、かしこまりました」渚はテーブルの上にあるメニューを手に取ったその瞬間、何故か取り落してしまった。バサッ!軽い音を立てて床に落ちるメニュー。「あ……」渚の顔は真っ青である。「お、おい。大丈夫か?」里中はメニューを拾うと渚に渡した。「お前……すごく顔色悪いぞ? どこか具合でも悪いのか?」「平気だよ。僕は大丈夫だから……」無理に笑顔を作って言っているが、身体は小刻みに震えている。「無理するなよ?」「うん、ありがと……」渚はメニューを受け取ると厨房へと戻って行った。そんな渚を里中は心配そうにして見つめてポツリと言った。「……気のせいか? 一瞬間宮の両手が透けて見えたような気がしたな………」**** 食事を終え、支払いを済ませて職場へ戻ろうとしていた時に里中は渚に呼び止められた。「里中さん。これ、千尋からリハビリス
——2月14日 今朝の千尋は渚よりも早起きをして朝食とお弁当の準備をしている。お弁当はサンドイッチ、朝食は野菜スープにボイルしたウィンナーにスクランブルエッグとスコーン。準備していると渚が台所にやってきた。「おはよう千尋。まさかお弁当と朝ご飯の準備してくれてたの?」渚が目を丸くする。「うん。たまには私が用意しようと思って。丁度良かった、渚君に渡しておきたい物があるんだ」千尋は隣の部屋から紙袋を持って来て渚に手渡した。「これ、バレンタインのプレゼント。良かったら受け取って?」「え? 僕に?」紙袋の中身を取り出すと、そこには紺色の手袋が入っていた「この手袋ってもしかして……手作り?」「うん、気に入ってもらえるといいんだけど」千尋が照れたように言う。「気に入るも何も、僕の一生の宝物だよ! ありがとう、大事にするよ!」渚は手袋を握りしめて嬉しそうに笑った。「大事にしてもらえるのは嬉しいけど、ちゃんと使ってね?」「うん、早速今日から使わせてもらうよ」渚は手袋をはめてみた。「すごく暖かいね。僕もホワイトデーに何か千尋にプレゼントさせてね?」「その気持ちだけで、いいよ。それより朝ご飯食べない?」「うん、そうだね」「「いただきます」」いつもの朝食が始まった。「うん、このスコーンすごく美味しいね。どうしたの?」渚がスコーンを食べながら尋ねた。「これはね、前に仕事が休みだった時に生地を作って冷凍しておいたの。良かった、渚君の口にあったようで」「千尋の作る料理は何でも美味しいよ。今日のお弁当楽しみにしてるね」「うん、期待に添えられると良いけど」 食後のコーヒーを飲みながら千尋が言った。「あのね、渚君にお願いしたいことがあるの」「何? お願いって?」「これなんだけど」千尋は紙バッグを渚に渡した。「これは何?」「手作りチョコが入ってるから私の代わりにリハビリステーションのスタッフの人達に渡してきてくれる? あ、勿論渚君の分もあるからね」「うん、大丈夫。ちゃんと渡してくるよ」渚は紙袋を受け取るとニッコリ笑った——**** 「はあ~」患者のマッサージを終えた里中がため息をついた。頭の中からは、病院のベッドで眠っている渚の顔が離れられない。あの日はあまりのショックに自分がどうやって家に帰ってきたのかも覚えていない位だった
後に残された二人は暫く黙っていたが、やがて渚が口を開いた。「今日はありがとう、里中さん」「え? 何が?」「里中さんがいてくれなかったら、見逃してもらえなかった」「間宮、お前……本当に間宮なのか?」「うん。僕は間宮渚だよ。間違いなくね」渚は寂しそうに笑った。「そっか……お前がそう言うなら、俺は信じるよ」「ありがとう」「ところで、これからお前はどうするんだ?」「実はね、今日、本当は仕事だったんだ。けれど急に祐樹に呼び出されたから臨時で休みを貰ってここに来たんだよ。でも千尋に心配かけさせたくなかったから、今日は仕事だって嘘ついてきたんだ。まだ家に帰る訳にはいかないし、何処かで時間潰してから帰るよ」「そっか……分かった。じゃあ俺も行くよ」渚も帰ろうと荷物を持った時に渚が声をかけてきた。「そうだ、里中さん。サボテン買いに行くんですよね?」「え? あ、ああ。そうだな」(やべ~サボテン買いにきたって話すっかり忘れてた!)「僕にも今度お勧めのサボテンあったら教えてくださいね?」渚は笑顔で言った。「お、おう! そうだな」里中は引きつった笑いを浮かべるのだった。**** 渚と一緒に店を出た里中であったが、やはり渚のことが気になって仕方がない。(間宮が家に帰るまで、ちょっと後をつけさせて貰うかな?)里中はどうしても渚を疑う祐樹のことが頭から離れずにいた。今日、渚の後をつければ何か情報が得られるかもしれないのではと考えたのである。 前を歩く渚にバレないように里中は慎重に尾行を始めた。渚は駅に向かって歩いている。そして駅に着くとそのまま電子マネーで改札を通ってホームで電車を待つ。「やっぱり、ただ家に帰るだけなのか……?」柱の陰から渚の様子を伺う里中。やがてホームに電車が到着し、ドアが開くと渚は乗り込む。里中も慌てて二つ隣の入り口から乗り込んだ。そして里中の予想通り、渚は地元駅で降りたのである。「やっぱりこのまま帰るのか……?」しかし予想に反して、渚はあるバス停に向かって歩き出してた。「え? 間宮、一体どこへいくつもりなんだ?」里中も人混みに紛れながら渚が並んだバス停に一緒に並んだ。バスはかなりの長い列が出来ている。(一体、このバスは何処へ行くバスだ?) バスは意外に早くやってきた。バス停に並んでいた里中は何処に行くバ
「だから、俺は渚に言ったんだ。お前は誰だって? 渚の知り合いで整形でもしたのか? 何たってこいつ顔だけはいいからな」渚は下を向いて歯を食いしばって肩を震わせた。「ち……違う。僕は……」「おい、はっきり言え! やっぱり渚の偽物か?」祐樹は再び怒鳴りつけた。「間宮、どうなんだよ? まさかお前、本当に……?」すると渚は顔を上げてはっきりと答えた。「僕は渚だよ。間宮渚、他の誰でもないよ」「なあ、間宮がここまで自分は渚だって言ってるのに、何を疑ってるんだ? だって姿も声もお前が知ってる間宮と変わりないんだろう? そこまで疑う根拠は何処にあるんだ?」里中は祐樹に尋ねた。「犬だよ」「は?」「だから、渚じゃないって疑ってる根拠は犬だってことだよ。お前は知らないだろうが渚は昔から犬をずっと嫌っていた。高校の時は近所で飼われている犬が煩いと言って石を投げつけて怪我をさせたことだってあるんだぞ? そんな男が犬を『可愛い』なんて言うと思うか?」「え……それだけの理由でか?」里中は呆れてしまった。「…」渚は黙っている。「何だよ、それだけの理由じゃ駄目なのかよ?」何か文句でもあるのかという目で祐樹は里中を見た。「いやいや、それだけの理由で偽物だって決めるのはあまりに変だって。第一突然昨日まで大嫌いだった食べ物が突然今日になって好きになるってことだってあるだろう?」渚の肩を持つわけでは無いが、あまりに無茶苦茶な理由だと里中は思った。「ふん、そこまで言うならもういいさ。今日の所は引き下がってやる。けどな、絶対俺はお前の正体を見破ってやるからな?」祐樹は、椅子から立ち上がった。「まだ僕を疑ってるの?」目を伏せる渚。「え? お前、帰るのか?」里中が尋ねた。「ああ、俺はこれから仕事なんだよ。え~と、お前何て名前だったっけ?」「里中だ。里中裕也」「じゃあ、里中。またな。そうだ、お前らに名刺渡しておくわ」祐樹は胸元のポケットから名刺カードを取り出して二人に渡した。「ショットバーBackus?」名刺を受け取った里中は読み上げた。「お前、ショットバーで働いてるのか?」「祐樹でいいぜ。雇われだけどな、夜だけバーテンとして仕事してる。ちなみに夕方から20時までは小中学生の塾講師をしてるんだぜ?」「ええ!? 塾の講師をしてるのか!」「何だ? そ